【明神宏幸】解任、再起。そして倒産(3/4)

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のこすかち

のこすかち」は、本当の価値とは何か?我々、今の時代を生きる人間が、次世代に「のこすべきもの」は何なのか?様々な視点から「のこすかち」を探してみたいと思いスタートした。

第一回目は、近年鰹の一本釣りで知名度を上げている明神水産株式会社(高知)の礎を築いた明神宏幸氏を取材させていただいた。

明神宏幸(みょうじんひろゆき)
昭和21年7月31日生
1986年明神水産専務取締役に就任。製造販売部を立上げ年商23億円にまで育てるも1996年解任。
同年土佐鰹水産株式会社を立上げグループ年商50億円にまで成長させるも2012年に倒産。
2013年明弘食品株式会社を立上げ現在(2016年11月)代表取締役。

突然の解任から再起へ

1996年2月、宏幸氏は突然明神水産を追われた。

自分なりに正しいと思うことを追求し、努力して結果を出していたつもりだったが、労をねぎらわれることもなく解任された。

ことの顛末はこうだ。

宏幸氏は当時メインバンク以外の銀行との新たな融資の話を進めていた。それを知ったメインバンクが態度をかえ、現在建築中の新船のために融資した資金を引き上げると言ってきた。

この時すでに父は他界しており、株主として名を連ねる兄弟達の言い分としては、お前がいると船を建築できない。だから辞めろという話だった。

自分の頑張りで製造販売部が経営を安定させ、戦闘力のある船もそろい、会社が強くなってきたのになぜこんな仕打ちを受けるのか。当然納得できる話ではなく憤慨したが、自身の持ち株は12.5%しかなく、他の株主で話はついていた。

怒りに震えたが明神水産を去るしかなかった。

話を伺っていると、自称田舎の漁師の三男坊が10年で23億円のビジネスをつくっていく過程は、正論を引っ提げて圧倒的な努力と工夫と行動力で突き進み、結果でねじ伏せていくようなスタイルだったように聞こえる。

正論は時に人の反発を、成長はやっかみをうみ、改革は既得権益にしがみついている人にとって邪魔者でしかない。宏幸氏も他人にはまねできないくらい圧倒的に頑張って結果を出してきたが、他人からは意見を聞かない偏屈者と嫌われていたかもしれないと振り返る。結果、多くの場所に「宏幸気にくわない」という火種を残していたのかもしれない。

しかし捨てる神あれば拾う神あり。

退職金もなく、無職となった宏幸氏に義父が救いの手を伸ばした。宏幸氏は2000万円の資金を借り、1996年9月に土佐鰹水産株式会社を立ち上げ、静岡の焼津を拠点として再び藁焼き鰹たたきをつくり、販売した。

明神水産時代に取引のあった流通業者が販売網を提供してくれた。初年度の売上は1億2000万円。宏幸氏だけでなく奥さんも娘さんも休日はなく睡眠時間の確保もままならなかった。翌年アメリカに留学していた息子弘宗氏も加わり、土佐鰹水産はこれまた常軌を逸するスピードで売上を伸ばしていった。

当然、質にこだわり一本釣りの鰹にこだわり続けた。売上げは順調に伸びていったが平坦な道ではなかった。どんな壁にぶつかっても妥協せず、努力し、正面突破をこころみた。

持続可能な漁業のために命をかけて

なかでも大きな壁だったのは、偽物の一本釣り鰹である。巻き網漁法で獲った鰹の中で鮮度のいいもの(業界ではPS鰹と呼ぶ)を、一本釣りの鰹として市場に流通させる業者がいた。

その結果一本釣りで釣った鰹の値段は下がる。ただでさえ厳しい一本釣り漁師たちはさらに厳しい状況に追い込まれる。そして、何より嘘をついて商売することに対する憤りも抑えられなかった。公正取引委員会に話を持ち込んでも、相手にしてもらえなかった。

何とかできないか。正しい真っ当なことをしている者が報われないのはおかしい。義憤にかられた宏幸氏が行きついたのはMSC漁業認定だった。

MSC漁業認定とはイギリスに本部を置く海洋管理協会が発行する「持続可能な漁業で獲られた承認水産物としての認定」で取得には数千万円のコストがかかる。

伝統漁法を守るために、正当な努力が正当に評価されるために、自分たちの未来を守るために、MSC漁業認定の取得を一本釣り業者に投げかけた。

当時、MSC漁業認定は日本ではほぼ知られていない状況で、取得したからといって本当にメリットがあるのか?といった不安もあった。数千万円のコストをかけ、時間もかかり、取得できるかどうかも定かではなく、取得できてもメリットがあるのかどうか不明。 結局一本釣り業者は動かなかった。動けなかったといえるかもしれない。

しかし宏幸氏は正しい真っ当なことが認められるためにあきらめなかった。土佐鰹水産グループ単独で、MSC漁業認定の取得に動いた。

宏幸氏は今回の取材中、なるべく事実を話すように努めている様子でプロセスや苦労話をあまり語りたがらなかった。その宏幸氏がこの時は「命を懸けてMSC漁業認定を取得した」と表現した。相当な覚悟と努力だったのだろう。

2009年11月、1年におよぶ審査期間を経て、無事土佐鰹水産グループは鰹漁業で世界初のMSC漁業認定を獲得した。当時の談話としてMSC公式webには以下のようなコメントが掲載されている。

社長、明神宏幸氏の談話。
「日本の漁師が古来より発達させてきた『鰹一本釣り漁法』が、真に持続可能な漁法であることが証明されたことを誇りに思います。
また、ここに至るまでご尽力いただいた関係者の皆様に感謝いたします。この度のMSC認証取得によって、この伝統的な鰹一本釣り漁業が守られ、将来にわたり残っていくことを切に望むとともに、持続可能な漁業の重要性について消費者の認識が高まることを期待します。
『鰹一本釣漁業』が再度光り輝く漁業となるよう、今後も努力していく所存です。」
(参照:https://www.msc.org/newsroom-ja/news/30ab30c430aa6f01696d4e16754c521d306emsc8a8d8a3c309

息子の死と東日本大震災

納得できないまま明神水産を追われ、その怒りをばねに必死に努力し土佐鰹水産を軌道に乗せた。偽物の一本釣り鰹を流通させる業者に負けず、命を懸けてMSC漁業認定を取得することで対抗した。

気が付けば土佐鰹水産グループの売上は50億を超えた。

まだまだその先に創りたい未来があった。

獲った鰹の値段が、水揚げするまでわからない。キロあたり500円で売れるときもあれば100円ほどになる場合もある。良いものが適正な値段で売れていく仕組みが必要。そうしなければ一本釣りは継続しない。

土佐鰹水産は日本だけではなく世界の市場にも目を向けた。日本では認知度の低いMSC漁業認定だったが世界的には注目度が高まっており、持続可能な漁業でとられたMSC鰹の付加価値は高かった。

たたき以外に世界でも通用する新たな需要を掘り起こしを狙って、かつおガーリック・レアステーキを開発し農林水産大臣賞を受賞した。宏幸氏ゆずりの行動力で会社をけん引していた息子弘宗氏の発案だった。

その弘宗氏が中心となり伊藤忠商事と話を進め、宮城県気仙沼に加工工場を建設し、MSC漁業認定鰹を缶詰にして欧米へ輸出する計画も始まった。

MSC漁業認定を受けた鰹の缶詰は世界的に需要が見込め、キロ200~350円で鰹を買い取っても採算が合い、需要は5万トン以上あるという試算だった。

地元の他の業者との兼ね合いも考え、年間1万トンからスタートすることとなり、順調に計画が進むなか、2010年10月29日、弘宗氏が事故でこの世を去った。

一人息子を亡くしたショックは言葉で表しようもなかった。

これまで宏幸氏は「自分の価値を示したい。」「正しいものが結果を出して正当に評価される世にしなければ」といった想いを事業にぶつけ、圧倒的な努力の原動力にしてきた。

一緒に戦ってきた息子弘宗氏の事故死を受け折れかかった心は「弘宗の生きた価値を残したい」という新たな原動力で支えられ再び事業に向いた。

「MSC漁業認定の取得は息子のアイデアだった。」缶詰輸出もまた弘宗氏が進めたプロジェクト。必ず成功させたかった。

弘宗氏逝去から4か月、引き継いで進めてきたMSC鰹の缶詰輸出プロジェクトはほぼ完了し、2011年3月11日伊藤忠商事の担当O課長が契約書の案文を詰めるために土佐鰹水産へ来社。

無事に契約書案文が完成しO課長が本社へ帰ろうとしていた午後2時46分、大きく地面がゆれた。

東北地方太平洋沖地震によって発生した津波で気仙沼漁港は大ダメージを受け、気仙沼の缶詰加工工場も津波によって流され、プロジェクトも消えた。

「勝手なこというけんどよ・・おらはうそもつかん、一匹もまぜものもせん・・そんなしよう者をなぜ神様は・・・・。何がなんなら、この世の中は・・。」

「残ったもんががんばってくれたけんど・・・。」それまで営業として様々な販路を開拓、価値創造をしてきた弘宗氏の逝去、震災。

これまで何度も逆境・不遇を乗り越えてきた宏幸氏だったが、もう立ち上がれなかった。

翌年2012年5月7日、土佐鰹水産株式会社倒産。


特集のこすかち 明神宏幸インタビュー

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